熊本城本丸御殿落成式 平成20年4月24日新聞掲載
 築城400年を機に整備が進められた熊本城本丸御殿が落成し、20日から待望の一般公開が始まった。同日は宇土櫓前の広場で落成式を開催し、施主の熊本市をはじめ、国会議員、熊本県知事、県下市町村長、工事関係者、一口城主ら約450人が出席。熊本城の新たな歴史の幕開けを盛大に祝った。
 落成式では、神事に続き式典を開催。熊本市の幸山政史市長は「熊本城の復元は、平成10年に西出丸一帯の整備に着手して以来、10年の歳月と89億円の事業費を投じてきたが、本丸御殿の完成をもって現段階における復元整備は完結した。多くの県内建築関係者に参加を頂き、心から感謝したい」と式辞を述べた。
 熊本城総合事務所の中島博幸所長による事業経過報告後、来賓から蒲島郁夫熊本県知事、熊本市議会の牛嶋弘議長、熊本城建造物復元課題検討委員会の平井聖委員長がそれぞれあいさつ。
 蒲島知事は「本丸御殿が加わったことで大阪城、名古屋城を上回るお城となることを信じている」。牛嶋議長は「観光立市くまもと都市宣言を決議したところだが、本丸御殿を起爆剤として、魅力を県内外にアピールしていきたい」と語った。
 闇(くらが)り御門前でのテープカットでは、130年ぶりに蘇った新たな歴史の瞬間をひと目見ようと県内外から集まった観光客らが見守った。

こだわり抜いた職人の集大成
往時の姿 現在に蘇る
 西南戦争時に焼失した本丸御殿の威容が130年ぶりに蘇った。古来の伝統工法を用い忠実に再現した本丸御殿は、こだわり抜いた職人の集大成と言われている。匠の技によって生まれ変わった熊本城は、新たな歴史の一歩を踏み出した。
 本丸御殿は、城郭のなかで天守閣と同じく中心をなす建物で、藩主の居間、対面所、台所などの機能を備え、大広間、大台所、数寄屋などの多くの部屋から構成。慶長15年(1610年)頃、加藤清正によって建設され、その後寛永10〜12年(1633〜1635年)頃に細川忠利が増改築した。
 建物は幕末まで存続し、廃藩置県後も熊本鎮台の施設として利用されていたと思われ、明治10年(1877年)2月、西南戦争直前に焼失した。
 復元は、江戸中期などの絵図資料をはじめ、文献資料、古写真、発掘調査等をもとに、地下1階、地上3階建て木造・入母屋造り延べ2951・11平方bの御殿を忠実に再現。総事業費は約54億円で、うち約12億円が熊本城復元基金として国内外(約2万7000件の団体・個人)から集まった寄付金を充てている。

目指したのは地場業者の育成
 今回の復元では、目的の一つに「極力、地元の材料を、地元の職人で」という地場業者の育成があった。総数1779立方bにも上る木材のほとんどは人吉・球磨地方を中心に県内から調達。職人もこれまで城郭建築物を手掛けた県内の熟練職人を結集させた。
 大工工事の職人は「全国から一流の職人を招集して作業を進めていると思われがちだが、そのような事はない」と胸を張る。職人はみな「こだわりが大切」と口を揃え、伝統技術で高度な技が求められる「土台のひかり付け(基礎部分)」など、400年前の数々の技術を地元職人によって見事に蘇らせた。
 工事最盛期には、職人歴50年を誇るベテランや2年目の若手など40人近くの職人がいたという左官現場では、世代間での技術の継承も行われた。熊本城総合事務所は「特に、この現場を経験した若手職人は、今後さらに他の現場で経験を積み、20年、30年経って御殿の補修時期に、また彼らの技術が必要になってくることだろう」と話す。

見所は絢爛豪華な「昭君之間」
 本丸御殿の中で特に目を引くのが、大広間の奥、若松之間の隣りにある「昭君之間」。豊臣秀吉の子飼いの武将だった清正が、その遺児である秀頼の万一に備え用意したと言われる最も格式高い部屋で、昭君之間とは将軍の間≠フ隠語とされている。
 部屋内は、慶長期の特徴である鉤上段の形式をとり、床の間、違い棚、付書院、帳台構えが備わった書院造り。中国の故事「王昭君」の物語の障壁画や、60面にもおよぶ花木の天井画が絢爛豪華さを演出している。
 一方、大広間へのアプローチとなる「闇り通路」は、御殿建築では、他に類をみない地下通路。建物を支える赤松の丸太梁、ケヤキの巨大な柱、石垣の凸凹に合わせて据え付けられた栗の土台などを間近で見ることができる。








熊本の職人 誇り高く熱心
熊本城本丸御殿JV工事事務所
後藤知之所長に聞く


 竣工を感慨深げに見守る熊本城本丸御殿JV工事事務所の後藤知之所長。延べ4万9700人の工事関係者が携わった現場で、およそ4年半にわたり指揮を執ってきた。無事工期内の完成に漕ぎ着けたのは「職人たちのおかげ」と感謝する後藤所長。本丸御殿の見所などを聞いた。

――現場の責任者として心労も多かったのでは
 忠実な再現が求められる今回の工事は一般的な建築現場と異なり、非常に打ち合わせが多かった。受発注者間、検査機関、元下請間等による週1回の会議はもちろん、現場でも継手、仕口など一つ一つの技法にわたるまで、事ある毎に職人達が集まり詳細に確かめ合うようにしていた。
 そのような中、特に気を配ったのは、打ち合わせた内容が職人達へうまく伝達されているかということ。通常、一つの現場に、大工であれば棟梁1人に職人達が5〜6人ほどいるが、今回は職人の数が多く、棟梁だけで5人いた。当然、連絡事項がそれぞれの棟梁に同じように伝わらないと、職人達に間違った指示が伝わり、仕上がりもバラバラになる。復元は、職人それぞれの個性を抑えなければならない部分もあるため、質疑応答を繰り返し、ほぼ毎日打ち合わせをして作業を進めた。

――地元熊本の職人達が大半を占めたが、現場には独特の思いがあったとか
 職人のほとんどが、本丸御殿を復元する以前に南大手門や戌亥櫓、元太鼓櫓、未申櫓、飯田丸五階櫓などを手掛け、実績を上げていた者ばかり。集大成として臨んだ本丸御殿でも誇りを持って作業をされていた。県外から職人を集める苦労もなく、逆に、自ら希望して「やらしてください」という者もいたぐらい。非常に熊本の職人は熱心だ。県内には文化財建造物木工技能者もおり、職人には恵まれた。

――本丸御殿で特に見てもらいたいところは
 本丸御殿は絵図、写真、発掘調査など復元のための資料が多く、部屋の名前、柱の数など忠実な復元をしている。壮大な外観、豪華絢爛な昭君之間、御殿建築では全国でも類を見ない地下通路(闇り通路)もだが、石垣に沿って建築する技術など随所に散りばめられた職人の技を見てほしい。

[前の記事]  [目次]